かたつむりは電子図書館の夢をみるか(はてなブログ版)

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「図書館はだれのものか:豊かなアメリカの図書館を訪ねて」

図書館はだれのものか―豊かなアメリカの図書館を訪ねて (中部大学ブックシリーズ)

図書館はだれのものか―豊かなアメリカの図書館を訪ねて (中部大学ブックシリーズ)


図書館情報大学で司書資格を取得した、現役の図書館員の著書。

アメリカの図書館サービスは、日本より10年以上進んでいる・・・<略>・・・この豊かさを提供できるのはなぜか。本書ではその理由を考えてみたい。(p.3「まえがき」より)


とある通り、シアトル公共図書館や米国議会図書館などの「豊かな」サービスを提供している図書館を例にあげながら、それぞれの館種の図書館についてなぜアメリカではすぐれたサービスが提供されているのか、といったことを考察している。


アメリカの図書館の紹介と言えばなんと言っても菅谷明子の「未来をつくる図書館-ニューヨークからの報告-」(岩波新書)が有名だが(かく言う自分も持っている)、「図書館はだれのものか」では菅谷が描写しきれていなかったアメリカの社会的背景についても触れようとしている。
この社会的背景について触れた部分が非常に興味深い。



「未来をつくる図書館」の中でもニューヨーク公共図書館が寄付金から成り立っていることなど、日本の「公立図書館」とは違うことについては書かれていたが、同じようにシアトル公共図書館フィラデルフィア図書館組合なども全てが税金で運営されているわけではないらしい。
これはアメリカの公共図書館の歴史が図書館(のようなもの)を求める市民の中からはじまったことによるものが大きい、というのが「図書館は〜」を読むとわかる。

図書館は必要とする人たちが立ち上げ、それがのちに公共図書館として不動の地位を得る、というのが図書館の存在理由としては自然であろう。・・・<略>・・・本当に必要なものなら、フランクリンが創始したように私立図書館方式で始めれば良い。<略>

今の日本には図書館のない自治体が半分近くある。それでも困っている人たちが少なかったから、設置されなかったのではないだろうか。設置が切実な課題なら、ベンたちの先例を習って、家庭(子ども)文庫活動のように始めるべきではないのか。それが民主主義世界の原理ではないだろうか。(p.31より)


もともとアメリカの公共図書館の発端が図書館的なものを必要とする人たちによる「私立図書館」であったことなど、まず要望(それも「あれば使う」程度ではなく「ないと困る、ないなら自分がつくる」レベルの要望)があって、それを受けて始まったことだからこそ、今のアメリカの豊な図書館があるんじゃないか、っていう話。


また、(上の引用部でもちょっとあがった)最近話題の図書館と民主主義との関係については、

民主主義を支える図書館という考えが市民に支持されるのは、独立宣言を署名した場所がフィラデルフィアの図書館ホール(Library Hall)であったことと決して無縁ではないように思われる(p.44より)。

というくだりをはじめ、アメリカ独立に貢献したベンジャミン・フランクリンフィラデルフィア図書館組合を設立したこと、その設立にほかにも独立宣言署名者が9人も関わっていたこと、あるいは一度は焼失したアメリカ議会図書館が第2代大統領・ジェファーソンの蔵書によって再建されたことなど、初期のアメリカ民主制と図書館との密接なかかわりについて述べられている。


残念ながら民主主義と図書館のかかわりについて、民主主義とはなにかを明らかに定義した上での説明は文中にはない。
逆にいえば、実際に図書館と民主制が強く関わってきた歴史があるから、論理的な説明がなくても直観的に「民主主義を支える図書館」という考えが市民の間で自然に受け入れられている、ということもできる。


そう考えると、やはり図書館と民主主義のかかわりについてはアメリカにおける歴史的背景があるからこそのものであって、そういうバックボーンを持たない日本で図書館がいくら民主主義を唱えても白々しいものに聞こえるのは当然なのかも知れない。


もう一点、アメリカの図書館についての紹介で面白いのは「自助努力」の考え。
欧米で公共図書館設立ブームを起こしたアンドリュー・カーネギーカーネギー財団の創設者)についてのくだりで、

カーネギーは・・・<略>・・・下記のような教訓を述べているという。
『重要なことは、自助努力をしようとする人を助けること、向上を願う人に向上を実現する手段の一部を提供すること、立身出世を願う人に立身出世できる手立てを与えること、それを支援するが、何もかもを差し出してはいけないということである。』


自助努力できる奴「だけ」を助ける、それができない奴は知らん。
そういう精神のもとにやる気があればいくらでも活用し、立身に役立てることができる「図書館」というものを慈善事業の対象にした人がいて、実際にそれを使ってのし上がってきた人たちがいるのがアメリカの図書館の背景になっているわけだ。
途上国に援助しすぎて相手国の住人の労働意欲を奪っているどこぞの国の政府に教えてやりたい考えではある。
一方で、言いかえれば「自助努力できない奴はできる奴に比べ不平等な状態に置かれても仕方ない」っていう考えでもあるわけだから、平等の精神を重んじる人には許せない考えであるかも知れない。
いわゆる「機会の平等」を重視し、「結果の平等」は顧みない、って感じ。
でもアメリカの○○財団系ってこういうところ多いんじゃないだろうか?
特に大学図書館とか研究プロジェクトとかに投資してくるところはそんなんばっかな気がする。




そんなこんなで、著者の松林さんはアメリカの図書館が豊かなことの社会的背景を明らかにする、ってことを言っていて、実際アメリカの図書館を支える考え方みたいなものはよく伝わってくるわけだが。


同時に、日本とアメリカの図書館を巡る社会的背景がまるで違うこともよくわかった。
これだけ社会が違うんだから、単にアメリカの真似するだけじゃあ日本の図書館がうまくいくわけもないよなあ・・・
大学図書館にしたって、アメリカの図書館員がそもそも図書館学以外にもなんらかの修士号を持ってる前提があるから「サブジェクト・ライブラリアン」って発想が現実味を帯びるわけだが、日本の図書館員でそもそも図書館情報学修士号持ってる人すらどれだけいるのかと。
かと言って、日本でアメリカみたいに「図書館情報学と別のなにか、あわせて2つの修士号を持つこと」なんて専門職制度を取り入れるのも非現実的な話なわけで。
最近流行のビジネス支援図書館についても、松林さん自身が文中で「アメリカの図書館は(ビジネス街など)地の利がいいところにある。日本の図書館はビジネスマンにとって使いにくいところにあるわけで、ビジネス支援に力を入れる以前にまずビジネス街の近くに小さくてもいいから分館を建てる方が大事なんじゃないか」みたいなことを指摘されている。


もちろん、ほかの人のいいところはガンガン真似するべきだとは思う。
ただ、そのときにそもそも「それは自分にできそうなことなのかな?」っていうことをちゃんと考える必要があるのかもしれない。
これはまんま大学の先生の受け売りだが、
「プレゼンテーションは格好いいと思うやつを真似しろ。ただし、自分にもできそうなやり方を真似すること」。


なんでもかんでもアメリカを真似するんじゃなくて、アメリカ流のやり方で日本でもうまいこと真似できるのはどこか、見極めることが大事なんだろう。