「だからそこで図書館だろ」
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日本におけるリテラシー教育の不可能性 - こころはどこにゆくのか?
日本の教育制度は詰め込み型・洗脳型の教育を行うようにできているけど、これは金をかけずに学力(学力テストで点数稼げるような意味での)を身につけさせるには出来のいい制度で、一方で
自分の前にそびえ立つ権威の正当性を疑い、正当性という概念そのものさえ疑う。文化を疑い芸術を疑い、美を疑う。正義とは何か、真実とは何か、時間とは何か、空間とは何か。ひとつとして答のないことを確認しながら、それでも生きていく為に必要なことは何かを考える。誰もが関係と関係の狭間に生き、誰もが危うい生を生きていることを学び、そしてその儚い生を愛することを学ぶ。これら全てが語って教えることでなく、自ら考え学び取られなくてはならない。
という、真の意味での「メディアリテラシー」を身に着けさせるには最高に不向きな制度である。
「リテラシー教育」を本気でやろうと思うなら、少しずつ強制的に現行制度を変えていくしかなく、いっきにやろうと思うと教育制度ぶっ壊してやり直さなきゃいけなくて、しかもしばらくの間テストで測れる意味での学力はかなり低下(あるいは崩壊)してしまうだろう、みたいな話。
こういう話を聞くと、図書館情報専門学群生としては言わざるを得ないよね。
「そこで図書館だろ」と。
そもそも学校の授業みたいな「定型学習」って呼ばれるような枠組みはメディアリテラシーみたいな主体性を必要とするものを身につけさせるには不向きなわけですよ。
誰もが最低限、身につけておかないとやばそうなこと(読み書きとか計算とか)を教える分には良くできたシステムだけどね。
いろんなものを疑いつつ、自分の頭で考えないといけないようなことを身に着けさせるには、図書館で自分で調べものしたりするいわゆる「非定型学習」って呼ばれるものの方が向いている。
っつーかそもそもそのために公共図書館とか学校図書館とかあるんだし。
もちろん戦前からあるところにはあったが、戦後になって妙に数が増えたのは、一元的な洗脳教育でまた日本が変な方向に突っ走るの危惧したアメリカが、「図書館つくって、国から教わる内容以外にも自分で学習できる機会つくったら、権威とか疑う態度もできるんじゃね?」とか考えたことが少なからず背景にある。
その目論見が成功したか否かは別として、もともとそういうメディアリテラシー的なこと身に着けさせるためにあるものなんだから、図書館はまさにリテラシー身につけるにはうってつけな場所なのですよ。
ただ、じゃあ学校教育で図書館をもっと積極的に使うべきか、と言われると個人的には「うーん・・・」と思う。
最低限の図書館の使い方は教えるべきだと思うが*1、それ以上のことをしようと思うと、本当にコストばっかりかかって効果が上がらない気もする。
だからアメリカとかの学力は日本に勝ってないわけだし*2。
非定型学習はあくまで非定型学習として、定型学習と連携/協力するのはいいけど、定型学習を非定型化してもしゃあない感もあるわけで。
だからまあ、学校教育の枠組みの中では図書館(あるいはその他の情報源)の使い方と、あとはせいぜい「調べたいことがあったら自分で調べてみよう」みたいな話をするにとどめて、あとは今までどおり詰め込み式でやっててもいいんじゃないかね?
それだけだと不十分だと思うなら、田中芳樹の「創竜伝」を学生の必読図書に指定するとかw
あれ読んだら「日本の学校教育なんてクズだ! 日本の政治家と官僚はみんな馬鹿だ!」みたいに思って、とりあえず学校教育を疑う態度は養えると思うから、そこですかさず図書館に誘導することさえできればリテラシー的なものを身につけるチャンスにはなるんじゃなかろうか。
コストも手間もかからないので超簡単!
その分学校教育は荒れると思うが*3。
まあそこは自助努力で頑張れ日本の先生たち(最後は投げやり)。
そしてこの方式だと身につかない奴にはとことん身につかないと思うが、メディアリテラシー。
しょうがない、そもそも人間は勝手に育つ*4ものであって、育てるものではないのである。
・・・まあ、育つ手助けくらいはできるかもしれんが。