知の越境、そしてすばらしきムダ知識へ:第一部「知の越境」(第十回Wikiばな)
6月はイベントシーズン!
ってことで今日は近著『科学との正しい付き合い方』を出された内田麻理香さん、『予定不調和』を出された長神風二さんたちが講演されるイベント、第十回Wikiばなに参加して来ました。
Wikiばなについて
Wikiばなは、2004年からゆるゆると不定期に開催されているIT系イベントです。Wikiばなの「ばな」は「恋バナ」のバナと同じで、「話をする」という意味です。Wikiについて話をしあう集い(イベント)でした。
当初は、プログラマな人やWikiのヘビーユーザの集いでしたが、最近は、ジャンル横断的に多様な方が集まります。とりあげるテーマも、Wiki直球勝負的なものや、いわゆるIT系勉強会とは異なってきましたが、来場者が主体的に参加できるIT系イベント・勉強会の形式を積極的に取り入れています(ライトニングトークもその一つ)。
関係者一同、全員が手弁当で、「楽しいからそれをやる」「それをやらずにはいられない」という心意気で開催している手作りのイベントです。また、一部では「猫の集会」と称され、コミュニティというには規則や結束がゆるく、距離感の自由さがあります。近づきたい人は近づいて、そっと見ていたい人はご自由に。
どうぞお気軽にご参加ください。
- 作者: 内田麻理香
- 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
- 発売日: 2010/04/15
- メディア: 新書
- 購入: 14人 クリック: 528回
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『科学との正しい付き合い方』のレビュー 内田麻理香 (min2flyさん) - ブクログ
- 作者: 長神風二
- 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
- 発売日: 2010/04/15
- メディア: 新書
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『予定不調和』のレビュー 長神風二 (min2flyさん) - ブクログ
自分はこれまでWikiばなには参加したことがなかったのですが、今回は長神さん、岡本さんにご紹介いただき参加してみました。
勢いでライトニングトークまで申し込んでしまいましたが・・・さてはてどうなるやら(汗)*1
内田さん、長神さんの著書も読ませていただき、大変面白かった(詳しくは上記ブクログリンク先を参照のこと)こともあってかなり楽しみにしていたり。
科学との付き合い方、ということでは(内田さんの著書でも言及がありましたが)昨年の事業仕分けをめぐる一連の騒動以来、科学者・研究者界隈内部でも、外側(という表現がいいのかという議論もありますが)でも興味が高まっているであろうところでもあり。
その手の話に興味がおありの方に、でもかたい文脈での話にはそろそろ飽きもきてるかも、という方に是非おすすめのイベントではないかとー。
ということで、以下いつものようにメモです。
なお例によってmin2-flyの聞きとれた/理解できた/書きとれた範囲でのメモですので、その点ご理解の上ご活用いただければ幸いです(誤りなどはコメント欄等を通じてご指摘いただければ助かります)。
なお、当日の様子はUstream、Twitterのハッシュタグ#wikibanaなどでも確認できるので詳しく知りたい、会場の熱気を体験したい方はそちらもご参照ください。
なお、本日は2部構成と言うことで、それぞれにエントリを分けてアップしたいと思います。
記事数稼ぎのためじゃないよ、速報性を上げるためだよ。
では、以下まずは第一部「知の越境」から!
前説(shinoさん:Wikiばな主催)
- 今日の経緯
- 後半はライトニングトーク
- IT系のイベントではメジャーなLTだが、簡単に説明すると1人持ち時間5分。5分で銅鑼が鳴る
- 今日は銅鑼娘ではなく、銅鑼博士。江渡浩一郎さんが銅鑼。
- つまらなくても、滑っても、ブーイングせずに温かく見守ろう
- IT系のイベントではメジャーなLTだが、簡単に説明すると1人持ち時間5分。5分で銅鑼が鳴る
- 最初に内田さんの本の編集者が裏話。会場のみのお楽しみコーナー。
担当編集者が語る『科学との正しい付き合い方』うら話(三谷祐一さん:Discover)
会場のみのお楽しみコーナー、Ustream配信もここだけなし、とのことなので記録作成は自重・・・
科学との正しいゆるい付き合い方:非専門家が使い倒す専門知(内田麻理香さん)
- なぜこんなところにいるのか?
- サイエンスコミュニケーション?
- 従来の説明はよくわからない
- 過去の仕事の紹介から、『科学との正しい付き合い方』の背景を話す
- 今までの活動
- 並べてみると雑多、節操がない
- 対象はいろいろ
- その中で一貫しているのは伝えたい内容と相手
- 並べてみると雑多、節操がない
- 伝えたい内容:「サイエンスは身近にあふれている」
- 生活やサブカル、一見それとわからないところにもサイエンスは寄り添っている
- 伝えたい相手:「気のない相手に振り向いてもらう」
- 科学アレルギー、関心の低い人に使ってもらいたい
- 非専門家にとっての科学リテラシー
- クリティカル/ロジカル・シンキングが出来て、サイエンスへのほどほどの関心があれば十分
- 関心が低くて、クリティカル・シンキングが出来る人に伝えるのは難しいのはわかっていた
- 見えない壁にいつもぶつかる
- 知の越境?
- 私自身、見えない壁を越境したい
- 過去の活動を3つの観点で
- 異分野をフックに
- サイエンスと何かを組み合わせれば何かの方に興味を持ってもらえるかも
- 例えば最初に出した『カソウケンへようこそ』は生活+サイエンス
- 異分野をフックに
- 作者: 内田麻理香
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/01/29
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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- 次の『恋する天才科学者』はプライベート+科学者の伝記。科学者も普通だったり変だったりする
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- 作者: 内田麻理香
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/12/20
- メディア: 単行本
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- ポップカルチャー+理系女子支援・・・「理系なおねえさんはアリですか?」。今年度中に本になる
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理系なおねえさんはアリですか?―内田麻理香が聞いた理系な女性の理系な人生―:連載|gihyo.jp … 技術評論社
『ガンダム』富野監督と東大工学部教授のディスカッション「テクノドリームI」開催 - T lounge blog::東京大学工学部広報室
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- アウェーで勝負する
- 自分の領域にとどまっていると自己満足。できるだけアウェーに出て行く
- 理工書「ではない」コーナーへの越境・・・『台所科学』:レシピ本のコーナーに。しかし見事に失敗。ギーク男子には受けるが主婦には受けず・・・再考の余地あり
- アウェーで勝負する
- 作者: 内田麻理香
- 出版社/メーカー: 角川SSコミュニケーションズ
- 発売日: 2009/05/25
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 42回
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- 『おいしい実験キッチン』:学習書のコーナーへ。親対象だとするといい手かも。お母さん方は子供の教育に熱心、その教育と一緒に自分が勉強する。子供むけ実験教室でもそれは感じる、主婦対象だともやもやして終わるが、子供向けだと熱心で反応が違う。子供向けに見せかけつつ同時に親を対象にする有効な手法。
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- 作者: グループコロンブス,内田麻理香
- 出版社/メーカー: 主婦と生活社
- 発売日: 2008/06
- メディア: 単行本
- 購入: 5人 クリック: 95回
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- 『科学との正しい付き合い方』:ビジネス書狙いだった・・・が愚図愚図している間にサイエンスシリーズに(汗) ただ、ブッククラブで普段ビジネス書、啓もう書を読んでいる人も来てくれたので効果はあるかも
- 同じ新聞媒体でも、生活欄への連載は圧倒的に難しい。読む人が増えるし、生活欄はお役立ち感も必須。比喩も必要
- 夕刊1面の方は気張って読む人が多いので難しくなかった
- 『レタスクラブ』の連載でも「マニアック過ぎ、お役立ちを」と言われ鍛えられる
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- サイエンスって役に立つの?
- 「役に立たないけど、なんか面白い」をやりたいが、フックになるなら・・・
- サイエンスって役に立つの?
- 「ゆるい」科学を非専門家に伝えたい、その境界を考える
- 浦沢直樹:「5分の魂」・・・95%がエンターテイメントでも5%魂があればいい
- 比喩や擬人化で正確なところが落ちたり誤解が出ても、気をつけながらやる
- 必要な条件を削るかも、と言われるようなインタビューは断る
- 知の越境、見えない壁の越境
- 過去も現在も模索中。皆さんからアドバイスいただけると嬉しい
ひらけ、専"門"知:つくる・つなげる・つかう(長神風二さん)
- サイエンスコミュニケーターがなぜWikiばなに?
妥当打倒、江渡浩一郎!- あまり内田さんが盛んに褒めるので「俺も負けてないよ」と言ったら勝負しろ、ということに
- 酔った内田さんに怖い目でやれと言われた
- 自己紹介
- サイエンスコミュニケーター
- 今は研究機関で機関広報をしている
- 仙台在住
- もともとはお台場の科学館の職員だった
- これまでやってきたこと・・・
- 『予定不調和』について
- 先端科学に近い内容をSF的なショートストーリーで描き、そこに解説を加える
- 12章構成(詳しくは上のリンク及び自分のレビュー等を参照)
- 第1章の例・・・スマートドラッグ。飲むと記憶力が良くなる薬などが出てきた場合、飲んでいる人、飲まされる人、無言の圧力で飲まざるを得なくなる人を描く
- 現在進行形の、脳機能に関する、化学物質、薬剤の開発状況の進み方等をvividに伝える
- それがもたらす社会の価値観、倫理観の摩擦を描く
- 専門知の話をできるだけ広い形で伝えたい
- 図式化すると・・・
- 生命科学、生き物そのものの仕組みやそれを治療に役立てることを追い求めた科学が、社会のフェアに対する価値観とぶつかる、という話
- サイエンスの専門知と、従来型の価値観・倫理観のぶつかり合い。後者の方がより広く受け入れられ、保守的、制度にも守られている
- 最先端のサイエンスが社会を攻撃する構図にも見えるが、本の主題としては一つのサイエンスの進歩だけ見るとそうなるが、いろんなものが進展して相互作用することを考えれば、次の体系への調和、色んな人が参加することを描いた
- 先端科学に近い内容をSF的なショートストーリーで描き、そこに解説を加える
- 構図そのものとして・・・できあがったサイエンスの成果が社会を揺るがすことがいいのか?
- 専門知の発展が社会にとって脅威となる。それでいいのか?
- 「知らない人が、知らないところで、勝手に進めたことを、押し付けられる」
- サイエンスコミュニケーションも頑張っているが・・・「押し付けられる」のをソフトにしただけ、という不信感もある
- ここをそのままにして結果だけ双方向で伝えると、いくら言っても脅威は減らない
- 本の感想でも、さっき言ったように分野間の相互作用等でmoderateされて、個別発展がなにか起こすと伝えるわけではないと書いたつもりだったが、「科学の暴走は怖い」などと書かれてしまう
- サイエンスが閉じていて、それにサイエンスコミュニケーションがそう、というのではなく専門知の形成過程自体オープンにできないか??
- 専門知のコミュニティで、コミュニティ内での専門知の蓄積が自己目的化している。どうするか?
- サイエンスカフェ・・・専門知を公共に開こうとするものだが、そう受け取ってもらえない
- 閉じた感じ、自己目的に感じられる
- コミュニティ内の人事・評価の仕組みが同業者評価(ピア・レビュー)。その中で閉じている。研究者は共同体を作って外からの評価は受けない。右へならへの雰囲気を作っている
- ただ理系でマシなのは、国際性があること。無視されても海外で光が当たる、とか。同業者による閉じた評価とは違う評価もある。あるいはプロダクトを作る分野は社会から直接評価もされる
- サイエンスコミュニケーションもまた・・・
- 来てくれた人からの評価、に終始
- 振り向いてくれない人をどう振り向かせるか、というとイベントに来るのはそもそもこっちを向いている人。クライアントが固定してしまう
- 評価がしっかりしていない不安から学術に逃げることも
- 実践のサイエンスコミュニケーションが、研究面をし始める
- 「サイエンスアゴラ」も実践を集める思想がピア・レビュー化してくる傾向が。このままではまずい
- 大学に移ったのはその無力感から、専門知の形成過程に近いところに来たかった
- サイエンスが研究を独占できるのは人材、情報、資源を独占しているからだが、今はもう共有化できる。プロセスそのものを共有したい、そういったシステムを作りたいと考えて、練っている。Wikiの話ともつながるかも
- 「サイエンスの本質はコミュニケーションである」
- 論文に書くことで同じコミュニティに共有する、アイディアや観察を同じ研究室で共有する、それが本質
- 範囲が広いほどいい研究、その共有がコミュニケーション。それ自体を広くオープンにできないか?
- e-Scienceでそういう話もあるが、あくまで研究ベースの話。研究室単位のセミナーがweb会議になるような話で、現状では不満。科学研究共同体をオープンでアクティブなものにしたい
- 研究者がまとめたものは今は論文だが、データ単体、実験ノートの段階で公開して共有できないか。
- そうすると今、研究論文をまとめるレビューではなく、手を動かさなくても実験をレビューしたりできるのでは。それがオープン・イノベーションにもつながる。そこを含めて制度設計できないか?
- 複数人が参加しながらやるような/専門家以外にも支えられるような、Wikiと関係するのでは?
- 課題・・・研究者の共通言語/述語、英語の問題、研究資金等を今までとどう変えるか?
- 新しい評価システム、知財
- 課題はあっても、なんらかの形で、システム化していけばオープンにできるのでは、とおぼろげに考えている
- 何とか形にまとめて世に問いたいと考えている
休憩
専門知と公共知:万人の、そして万人のための(岡本真さん)
- 「こんなタイトルつけたっけ・・・?」
- 割とのりで付けたタイトル
- どういう縁だったかも覚えていないが、気付けば内田さんや長神さんと良くつるむように
- 気付けばサイエンスコミュニケータの知り合いが多い。大学(国際基督教大学)の同期もサイエンスコミュニケーション関係が多い。
- 公共知の定義はいろいろと思うが・・・
- 悩んでいる話からアドバイスをいただきたい
- スライドに関係ない話だが、昨日ARGトークと言うイベントを開催。
- 7月には『ブックビジネス2.0』という本が出る
- 去年の夏にARGフォーラムというイベントもやった。悔しいのは、今年が電子書籍元年と言われること。でもこのテーマで最初に何かやったのは自分だと思うのだが、やり方が下手でうまく取られてしまった
- 内田さんはライター、長神さんはイベントを作る人だが、自分の本職はwebプロデューサー
- 情報技術を使って何か大きな仕組みを作っていきたい。人々の行動をうまく引っ張っていく、リードする仕組みを作れれば。そのためのアジェンダセッティングがしたい。
- 昨年のフォーラムも昨日のイベントも、知識・情報の在り方を大きく考えるためのアジェンダを立てて、議論の枠組みを作る、そこから世の中の仕組みを作るため。そういう仕事、趣味。
- 「知」をめぐる2つの経験から
- ACADEMIC RESOURCE GUIDE:http://www.ne.jp/asahi/coffee/house/ARG/
- 1998年に開始、12年やっているメルマガ。テーマはインターネットの学術利用
- これまで400回発行
- それをやって思うこと・・・
- 大学時代には丸山眞男について勉強していて、院に行きたかったが学生結婚していたので出来なかった。そのため編集者に。
- 大学院に行けなかったのが残念で、編集者を辞めた後に一時、東大の研究員もしていた。しかし蓮見総長(当時)が学士入学試験をしなかったので進学できず。
- 専門家にはなれないかと思っていたが、ARGをやってわかったのはなれるということ
- 当時、ARGのようなことをしようという酔狂な人はいなかった
- 一人で極めて行けばその分野の専門家になって、各方面から声もかかるように。昨年には『日本歴史』でも原稿を書かせてもらえた。専門性はどんな分野でも築ける
- 一方で気付くのは、「けっこう研究者はヤバい」ということ。ARGで取組みを紹介するとクレームを受けたり、掲示板で陰口を書かれたりする。ある数学者のページについて、英語論文に日本語で説明を書いて、とコメントしたら「これだから一般人は・・・」と言われたり。そんなことはざら。すぐ自分の分野の作法を説きたがる。
- ある分野の専門家が、自分の分野以外ではすぐぶっ飛んだことを言い出す。研究者の専門性は分野内だけのもので、アウェーでは馬脚を現す。職業専門家ってそんなものか? 研究者への幻想が砕かれる
- 一方で一般人に言われるのは、「ACADEMIC」って何だ、という反アカデミズムなクレームも良く来る。痛々しい。ある種のルサンチマンであるのは良く分かるが、結局それらの人は大学に認められたい、ということ。
- ACADEMIC RESOURCE GUIDE:http://www.ne.jp/asahi/coffee/house/ARG/
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- Yahoo! 知恵袋:Yahoo!知恵袋 - みんなの知恵共有サービス
- 自分が作った最高の作品
- 設計者としては、「誰もがなにかの専門家」という考え。私はwebプロデューサーだし、関内の飲み屋にも詳しい
- 人は何かの専門家である。Q&Aサイトは良く知っている、エキスパートが教えてあげる場ではなく、ある分野の専門家はある分野のずぶの素人、そういう人々が教え合える関係を作りたかった
- 利用者数的にも成功したサービスだが、反省点としては質問専用・回答専用みたいにIDを作ってしまっているのが残念。ある分野の専門家がある分野でアマチュアであることを顕在化したかったが、人はどうしてもそれは嫌らしい。
- もう一つはWiki的なブラッシュアップの欠如。本当の集合知のためには書かれている内容がブラッシュアップされなければいけないが、他の人の回答を見て学び合うようなプロセスが盛り込めなかった
- Yahoo! 知恵袋:Yahoo!知恵袋 - みんなの知恵共有サービス
- このような経験から・・・
- 人は誰もがなにかの専門家と思っているが、なんのかんので厳然たる差
- あきらかに感じるのは、研究員の肩書があると例えば原稿料が上がる。日本の社会では大学に属していることが専門性を持っていると位置づけられる。対してARGは最初の3年は物好き、趣味としてしか見られない
- 専門知が世に貢献する知と見られる場合と、趣味と見られる場合がある
- そんなケチなことを言わず、みんなが対等に付き合える方が面白いが、どうすれば・・・?
- みんなが大学院、というのも違う。それでは残念
- どうやったらお互いの間にリスペクトを生んでいけるのか。勝間和代みたいに超強い人ならできるだろうが、今懸念されるのは強い個人がリスペクトされるようになってしまう。自分に出来るから他人に出来る、とはならない。もっと早い段階でぱっとリスペクトが生み会える仕掛けが作れないのか?
パネルディスカッション&質疑応答(モデレータ:江渡浩一郎さん)
- 江渡さん:最初はお互いの発表を聞いて思ったことから。
- 長神さん:2人とも、活動は良く存じていて、知の越境ということで・・・岡本さんの話にもあった、何が一番生涯になるのか。壁はなんなのか。内田さんのおっしゃる壁と、岡本さんが進めていく上で受けた変な反発の種類って結局同じことなのかと思った。
- 内田さん:岡本さんが学問の世界から受けた反発と? 確かに、私がサイエンスをポピュラー化することに対して、「これじゃサイエンスじゃないよ」と専門家から言われることはある。根は近い気がする。
- 岡本さん:感想はなかなか難しくて。良く話をしている部分もあるので。ただ、内田さんとも長神さんとも会うのは久しぶり。Twitterを介してやり取りをしている部分と、戦友というか、似たようなことではいずりまわっている認識もある。やっぱり同じようなところで迷っているんだなあ、というのと、ものを書く人と場を作る人で向かう方向が違うことも感じた。今日、ここにいる人は何がしかの問題意識は似通っていると思うので大同小異の部分もあるのだろうが、どうすればもうちょっと楽しく知を使っていくために大きなビジョンを描くにはどうしたらいいか、という話ができると生産的になるのでは。
サイエンスのデモクラシー化?
- 江渡さん:私も話の流れがわかってしまっているので間を取り持ちにくいが。長神さんにもう少し聞きたかったのは、サイエンスのデモクラシー化についてお話があって、個別の取組みをされる提案をされていたが、そこがもう少し詳しく聞ければよかった。なぜかと言えば、一番難しいことに取り組もうとしていると言うか、素人と玄人の接点はある意味わかりやすい。すでにサイエンスコミュニケーションの立場でやろうとしている。長神さんはむしろ玄人に変革を迫ろうとしている。本丸に攻め込もうとしている。その辺、やろうとしていて印象は?
- 長神さん:何人かから話が難しいと評価されてしまったが、この話を最初にパブリックにしたのは金沢、次が京都。そこで出てくるのは質の担保の話で、専門知の質の担保は専門家にしかできないのでは、ということ。私自身は公開のシステムを並列すれば、専門家同士で質を担保しないと、ということを考えているが、専門家の側からは「世に出て行く前にquality controlされたものが出て行かないといけない」、専門性を担保されたものしか専門家は出してはいけない、という反発がある。だからその過程そのものをいじれないかと考えているが・・・鶏が先か卵が先かだが。その反発が一番強い。
- 江渡さん:サイエンスのデモクラシーは非常に難しい問題。知識・知恵は従来職人が独占していた。中世には一部の職人がギルドで占有した。それに異議申し立てしたのが科学。科学そのものが知の民主化。その文脈で、民主化したはずの科学のさらなる民主化というのは、ある意味科学の徹底化であって、従来の科学を否定しても仕方ないかも。それをどうやるのか? 単に従来科学を強化するだけでは?
- 長神さん:歴史性についてははっきりわからないが、たぶん19〜20世紀の科学の専門家、細分化が職人化・ギルド化したのでもう一度、民主化が必要な時期なのかも。
- 江渡さん:おっしゃる通りで、もともとの科学の誕生に立ち返ると民主化だったのだが、20世紀後半にはそれが世界中を覆って、戦争・生活に浸透して実権を支配してしまった。もう一度それを解体して普通の人の手に取れるものに戻す、ということかと思う。非常に楽しみ。今の流れで他のお2人?
- 内田さん:私自身は、科学ももちろん、専門知であると思うが、いろんな専門知がある中で科学だけ特別に偉そう。文化の一つではあると思うが、そうではない側面もあるのに科学だけ特別な位置付けにある現在、どう民主化するか。長神さんは科学者の側からそれをデモクラシー化したいということで、わたしは非専門家の方からどうアプローチするか考えたい。
- 岡本さん:わたしが考えたいのは、使う側として考えたい。Yahoo!知恵袋の話で、いいサービスはきちんと研究に学んでいる。Twitter作った人らは「なんとなく作った」とかいうがどう考えて凄い勉強してそれに依拠しているとしか思えない。Yahoo!知恵袋は北海道大の山岸先生の研究に依拠している。人々の利己的な行動のバランスをどう考えるかで、山岸先生の本を全部読んで勉強した。科学は人々の生活にいきる。それから、関内で「くるくる関内」という飲み歩きの活動をしているが、それも飲み歩きが街を活性化すると言う研究に基づいている。一般市民が科学の知を上手く使うことに抵抗感を持つことが問題で、それをどうしたらやわらげられるのか。一つの対策としては国立情報学研究所のCiNiiみたいな、ごくごく普通にキーワードで探すと検索結果に論文が出てきて何気なく入れるパスを世の中に増やせないか。オフラインでもいいから、うまく世の中に組み込めないか。そういう当たり前の存在になればいい、そうなれば自然に身についてくる世の中になるのでは。
Wiki的なアクションをどう加えられるか?
- 江渡さん:CiNiiは非常にいいですよね。まさしくYahoo!知恵袋の話などはいい。Wikiばなに近づけると、Wikiシステムもそれに近い。もともとは本当になにも制約ないシステムだったが、Wikipediaみたいに大きなシステムだとちょっとずつ制約を足して、それでようやく成果を出したり衝突を回避できる。これを発展させる方向で話を考えると、皆さんのお話でちょこっとずつWikiの話があって美味しいが、もし今の行動の中でWiki的なアクションを追加したいと思うとすると、どんな風にしたい? どんなシステムがあると嬉しい?
- 岡本さん:自分の話ばかりで恐縮だが、さっき話忘れたが6/19に第8回ARGカフェを那覇でやる。2年くらい前からARG読者を対象にやっているイベント。インターネットの学術利用に興味を持っている人がLTをして、アイリッシュパブで飲んで交流する。例えばこういう仕組みを、先週長崎であった人工知能学会に論文を出していて、その方法をどんどんシェアしたい。ノウハウと言うと格が下がるが、やり方、道を積極的に開示して、もっといいやり方があれば勝手に高められるような。そういうものがるともっと面白い。ウェブシステムだけじゃなくて世の中にそういうプログラムを放って、それが自己増殖するような。もうひとつ付け加えると、WikiばなについてARGフォーラムのスキームとの違いについてTwitterで議論していたが、Wikiばなはやり方を全て開示していて、それを見れば出来る。こういうのをもっと広めるのが大切なのでは。
- 内田さん:Wikiとサイエンスの関わりで考えるのは、Wikiサイドでうまくいっていうのは1%のヘビーな人がいて、9%のたまに書く人、90%の閲覧者がいる。それがサイエンスに似ている。今は90の閲覧者がそっぽを向いている。そのままでは科学も衰退するわけで、その90をどうサイエンスに振り向かせるか。そういうところでWikiにも関心。
- 長神さん:知の部分でそれぞれが書きこめる、今できていることをどれだけ超えられるか。ある人が何かを知りたい、専門家を探して聞く、ということができる。検索して辿りついて敷居低くいける、というのはできる。じゃあ、まだ研究が出来ていないが誰かにやって欲しい、そのためなら10万円払う、とか。そういう人を集めて、その出資者がボツワナ、研究者はイギリス、資材は南アフリカ・・・みたいなこともあるかもしれない。インターネットにテキストや画像情報よりもっとおおきなものが載らないとだめで、そこまで考えた話をどうやったら作って行けるか。そのときに、知の形、研究論文も雑誌に載るためにあると思うが、それをプラットフォームに載せる形にする・・・というようなアーキテクチャをどうしたら考えられるか?
「科学において質の議論はしなくていい」?
- 江渡さん:今、お話を聞いていてそれぞれ面白いと思ったが、もう1つ別の質問を。Wikiの方で、具体的にはWikipedia等で逆に専門家が排除される傾向もある。CGMサイトで議論をすると正しい答えを書いた専門家の記述が消され、素人に書きかえられて、専門家がどう頑張っても覆らない、みたいな。他の局面でもあると思うが、どんな対応が考えられるか? 1つは評価システムの充実とか、Twitter的な考え方でいえば1アカウントに紐付けて統一的な自己を確立してアカウントに信頼性を持たせるとか。そういうメカニズムはあり得るが、もともと科学がそういうもののはず。もしよかったら、うまくいかなかった事例で良くて、非専門家を取り込む際に必ず生じる事例の類型。非専門家に情報の発信までしてもらうと頓珍漢なことを言いだしたりする。そこで苦労をした経験、あるいは苦労のすえ上手く行った例はある?
- 内田さん:…。
- 岡本さん:先に、私の発言はYahoo!と関係ない、当時の担当の回想。失敗と言うことだと、もう少し高尚なものを期待していたがマジかよ、みたいな質問の嵐。知恵袋は他のQ&Aサイトを見ないで作った、韓国のサービスを真似て作ったが、韓国のサイトはもっと高尚。でも日本だと「今晩のおかず」とか小町系とか。人生の悩み相談とか。最初は削除していたが、今は何が正しいかを議論しない方がいいのではないか。わからない人が質問をするサービスで、何が正しいかを選べるはずが本当はないはず。何が正しいかは主体的に選択しないといけない。その人が自分の抱える問題を解決される、心が晴れやかになることが大事で、真実は重要ではない。それでQ&Aサイトでは質を問わない、やばいもの以外は何が正しくて間違っているか、価値判断をすべてユーザに委ねた。それで伸びた。それを科学にひきつけると、科学において質の議論はしなくてもいいのではないか。学術書なんて適当に作られている。編集者は中身を評価できないし、中身を理解できていない。あれが正しい知と言えるかといえばけっこうヤバい。Googleで電子化されるとヤバい事例も出てくる。何が正しいかの議論は避けて、態度決定の問題として、何が正しいか信じる際にはその人自身が責任を負うとすればいいのでは?
- 内田さん:私も同感。本に「正しい」と書いていて、副題には「疑う」とあるが、「正しい」というのは・・・非専門家の参入を阻んでいるのは、専門家は正しい/正しくないはあまり言わないが、マニアはそこを問題にして、素人が投稿した気軽な科学ネタに正しい、正しくないと言ってくる。それが非専門家の知恵へのアクセスを阻むのでは。そういうところから離れて、判断するのは自分、というのはどうか? もうひとつ思うのは、論文のピア・レビューもオープン化すればいいというのは同感で、中の人のために書くのがいいのか、とは考える。
- 長神さん:たくさんの人が参加する場の議論で、正しい/正しくないが細かいところに行くと、健全な議論が疲弊する。それを回避するシステム作り?
- 江渡さん:回避できないですよね。
会場とのディスカッション
- 江渡さん:では今、一通りお話が終わったのでここで質問を。正しいとかなくていい、というのはわかるんだけれど、たぶん皆さんに共通するのはそれは言いたいが必ずどこかに壁がある。全ての人は自分の人生を一つしか持っていなくてある時点で選択する、そこで譲れないものがあるが、そこで正しい/正しくないは選ばざるを得ない。それをどう取り込む? というのは、それなりに新しいシステムでも構築を迫られるし、逆に言うと新しい人がその場面で受け入れられる正しさをこれから作るのでは。では質問を。
- 会場の人:岡本さんに興味として。Yahoo! 知恵袋のコンテンツの質で、ガイドラインとシステム作り、どっちが有用?
- 岡本さん:両方かと思う。システムが中身を規定することも感じる。webプロデューサーとして、コンテンツの内容を規定できるのは確か。Yahoo! 知恵袋では利用について魂に訴えかける文章も書いたので、そういう方がコミュニティにおける最初の雰囲気にはなった。それが上手く行けば維持はされると思うが、どう使うか論争は今もたくさんあるので最後はユーザが論争しながら決めるのだと思う。出したらあとはお客様がどう使うか。
- 会場の人2:内田さんのお話の中でアウェーで境界を探ると言う話があったが、アウェーってのはホームがあってアウェー。間をみて考えるというのはわかるが、境界を探ると言うのは?
- 内田さん:サイエンスを大衆化する際に原液を薄めて使うわけだが、どこまで薄めるか。例えば政治学でもポピュラー化して伝えたい、とした作家さんはその先が『ゴーマニズム宣言』か、とがっかりしていたり。その境界は一朝一夕では出てこない。一般に伝える際の境界線を探る、と言うのが最後のテーマだと思う。
- 会場の人3:サイエンスコミュニケーション全般に関して質問だが、コミュニケーションのあり方に関係するものなのかな、ということは感じている。教える、教わると言うのも一つの在り方で、教育の現場あるいは社会に出た人もそうだと思うが、そういう関係性にどう落とし込まれるのか。あるいは、ある知を誰かに伝えたときに、それをどう利用していいのか。そのへんのサイクル・・・
- 長神さん:ご質問の意味がわからないが、教育システムにどう落とし込むか?
- 会場の人3:科学はコミュニケーションであり、学習もコミュニケーション。教育の現場もそうだし、社会の人がなにかを覚えるにも・・・ちょっと表現がうまくできませんが・・・凄い広い意味での教育について。
- 長神さん:自分としては、先ほどは研究のシステムの中に色んな人をどう巻き込むかと言う話をしたが、最後の図には教育界と言う話を入れた。このあたりをどう回すかははっきりとは出ていないが、研究が進んで事実が決まってそれを偉い人が決めて教科書ができる、という上から下への流れではない、知りたい人がいて、事実があって、というような相互作用のあるシステムを・・・学校のレベルまではわからないが、即時性の高い相互作用のあるシステムを作りたいとは思う。
- 内田さん:知の循環と言う意味で、「こんなのあったらいい」と言うのは、自分が暮らしている中で、子供の病気の最新の情報を知りたいときに、「こういうこともやってください」とか、自身の体験を専門家とコミュニケーションした上で、それを取り入れる仕組みが出来たらいい。
- 長神さん:それは研究寄りと思うが、「知りたいこと」が知れない、というのが、既存の知識にあるのに乗っかってない、というのにもつながる。システムを作る人まで含めた還流ができれば。研究の知識を再体系化というか、研究と社会が直結しない理由の一つには体験の違いがある。図書館情報学のような、分類体系と生活における体系は違うわけで、それを結び合わせて組み合わせるインタフェースが必要。ユーザにそった体系化?
- 江渡さん:そろそろ時間なので〆たい。最後に僕から、「ここは残る」と思ったのは「ただしい・ただしくない」はどこかで出てくる。「〜だけはやめようよ」と言うのが科学。宙づりにしてもいいが、どっちかを探る努力はする。
第一部は以上。
パネルディスカションについては後ほど、見出しなどを適宜加えるかも知れませんが休み時間に更新しているので暫定的にこの形で見出しを追記しました(2010-06-13 6:23追記)。
個人的な感想としては・・・うーん、自分が科学よりだけど科学者かと言われると怪しい、むしろ科学者・研究者の行動を研究する、という立場にいるせいもあるかのかもしれませんが、そしてこれは懇親会である方が内田さんの『科学との正しい付き合い方』の感想としても述べられていましたが、なんか「もやもや」します。
研究者とそうでない人の間をつなぐ、と言うことでは自分も御三方の誰とも違う考えは持っていないはずなのですが・・・皆さんが自分以上に実際の研究者と近い位置で仕事をされ、サイエンスコミュニケーションという分野に携わられているからか、逆に科学を特別扱いしすぎなんじゃないか、という気も少し。
もちろん、多大な税金(=みんなが出したお金)を投じて研究が進められていると言う点では特別であり*2、かつ「本質はコミュニケーション」と言われるように独特のコミュニケーションがあると言う意味でもそうでない知とは違う面もあるのですが、ただ専門性の高い知はその分野に興味のない人には参入障壁が高い、と言う点は科学に限った話でもないわけで。
興味さえ持てば参入できる余地は割とある、と言う点では江渡さんもおっしゃってますがデモクラシー化はされてはいるんですよね。
外の世界の人間には見せない秘蔵の経典があるわけじゃないし、ある一族の間にだけ受け継がれる知識があってそこの家に生まれないと読めないものがある、とかいうわけではない*3。
それが専門化・細分化の結果入りにくくなったとは言っても、専門化・細分化したからこそ高速で研究が進みうる(それが外部から見てしょうもなさそうと判断されることに突き進んで言ったならたこ壺化と揶揄もあれるわけですが)ってところもあるわけで・・・必要なのは専門化が進んだものと、気軽に興味を持ったり意見を言ったり要望を述べたりすることができる関係をうまいこと作ること、のような気も。
そういう意味で、長神さんがディスカッション中で述べられているような、国の割と大きな資金を集めてやるのではなく、個々人の要望にそったような研究を少額の資金を集めて行う・・・というような研究の仕組みというのは、出来ると非常に面白そうだと思います*4。
研究者の側にも市民の要請に応えるとか、社会に還元できることに興味がある方はいるわけですし、上手くつなげられるときっと面白い*5。
データ自体の公開や途中段階の研究の共有、というのも、一部果てしなく規模のでかい分野(高エネルギー物理とか)では行われてきていますし、特にデータ公開の方は最近の科学研究でよく議論されるテーマでもあるので、今後進んでいく方向にあるだろう、と思います。
もっとも、それが必ずしも専門家以外も意見しそれが反映される、というものになるのかは・・・むしろデータ単体で公開されるとますます非専門家にはよくわからないものになる、というような気もしますが。
わかる人はもう専門家名乗っていいのでは、っていう。
そこらへん、厳密に考えだすと難しくて、一口に科学あるいは工学と言っても、参入障壁が高い、学部時代から分厚い教科書により蓄積した知と実験室で積み重ねた経験がないと話についていけない、という分野もあれば、興味がある人が独学でやってもそこそこついていけるというような(例えば今自分がいるような)分野もあり、一緒くたにして、あるいはどちらかでうまくいった/失敗したから別のところでもそうだ、というようなことは言えないということもありますが。
あとはディスカッションであった「正しい/正しくない」の話は、多くの研究者は条件をつけたり限界があることを前提に話すのであまり「正しい」とか言い切りたがらない、ってことはあっても「間違っているだろ」、ってことには突っ込みを入れるしそうであるべきとも思うのでちょっと今日の議論には首肯できない感じです。
「自分で判断する、ということでいいではないか」という部分に対する突っ込みとしては、直後にある内田さんの「子供の病気の最新の情報を知りたいときに」という例(親の判断が子供の命を左右すること自体はあらゆる場面で共通ですが、その際に信じられるかどうかあやふやな情報ばかりになっていることで親が判断誤って・・・というような事態は、自分は望ましいものではないと思います。でもよく起きていることですよね?)、あるいはもっとでかい局面で言えば政策決定の場面とかを考えればいいのでは、とか。
・・・うーん、いろいろ書いてみましたがやはりもやもやしますね・・・
そんなもやもやの中でお仕事をされている方々から、このもやもやどうしたらいいよ、っていうかもやもやしていることを知ってよ、というのを会場に伝えるという点では非常に成功した第一部だったと言えそうです。
それでは以下、第二部のエントリに続きます(感想などは後で追記?2010-06-13 6:23追記)。
*1:ちなみに会場でブログエントリを編集しているので、今の段階ではまだライトニングトーク前です
*2:しかしそれは科学や工学に限らず、高等教育機関で行われていることはなんでも、文学でも歴史学でも美学でも社会学でも政治学でもそうではある、言い換えると他の文化だってけっこう税金は投じられている、とも思ったり
*3:研究室がそれに近い役割を果たしているのでは、とも考えられますが、幸いにして多くの場合、研究室は自分で選んで入ることが可能なわけで
*4:本来はその要望とりまとめて集めた少額の資金をうまく配分することこそ国あるいは自治体等の政府の機能では、という気もしないではないですが現状必ずしもそうなっているかは疑問ですし
*5:もっとも、その場合、研究の結果がすぐさま実用に転じられるわけではない、むしろ十分に検証されていない段階で実用するとえらいことになる危険もある、ってあたりをどう説明するかとか、専門家的に見て今は成果を出せなさそうなテーマに人がつかなかった場合をどう対応するか、というような問題もあるわけですが