一昨日は日本図書館情報学会第57回研究大会で発表、昨日は同じく図書館情報学会で他の方の発表とシンポジウムを聞いており、本来であればそちらのエントリを先にまとめるべきなのですが。
そちらはまだ記事をまとめきっていないので、先に今日参加してきたサイエンスアゴラ2009でのシンポジウムについてアップします。
ってことで「野家啓一×長尾真×李明喜×折田明子×江渡浩一郎×長神風二×内田麻理香×岡本真」と言う、冗談のような豪華メンバーによるシンポジウム、「"ツタエルコト"はどこにある!? 科学コミュニケーションと学術コミュニケーション」に参加してきました!
- Science Communication: シンポジウム “ツタエルコト”はどこにある!? -科学コミュニケーションと学術コミュニケーション
- 2009-10-13(Tue): 11月2日(月)は野家啓一×長尾真×李明喜×折田明子×江渡浩一郎×長神風二×内田麻理香の豪華布陣−シンポジウム「“ツタエルコト”はどこにある!?−科学コミュニケーションと学術コミュニケーション」 - ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) - ブログ版
- 「“ツタエルコト”はどこにある!?−科学コミュニケーションと学術コミュニケーション」に登壇します - ペンギン日記(旧akoblog)
参加する前からきっと面白いシンポジウムになるという期待があって臨んだのですが、結果から言えば予想をはるかに飛び越える面白さでした!
内容の濃密さと、それに対する共感/感動、そこから始まる自分の思考がえらいことになり、末尾でパネリストの方々ご自身からもお話があったように「頭がいっぱいになる」シンポジウムで、考えるべきことはいっぱいありつつもそれらはどこかで根っこがつながっていると言う・・・
ただでさえ本文が長いのにさらに長々前口上を書いてもしかたないですね(汗)
ってことで以下、いつもの通りイベントレポートです。
例によって例のごとく、min2-flyの聞き取れた/理解できた/書き取れた範囲でのメモであり、今回自覚もしてますがけっこう取り漏らしたところも多いのでその点ご理解の上、ご活用いただければ幸いです。
参加者の方から誤りや補足などのご指摘がありましたらコメント欄などを通じていただければ幸いです。
基調講演(1) 「学術情報と市民社会(公共圏)」(野家啓一先生・東北大学大学院文学研究科)
- 今、図書館長もやっているので学術情報の流通は工夫を重ねている
- 専門は科学史・科学哲学なので歴史的背景も含めてお話したい
- まずは歴史を振り返るところから・・・
- 学術情報の集積が行われるようになったのは紀元前にさかのぼる
- 中世・・・修道院が拠点
- 12世紀・ルネサンス・・・今日の学問にとっての大きな出来事。
- 当時科学が発達していたのはイスラム圏。ギリシア時代の科学が独自の発展を遂げる・・・欧州に逆輸入されるのが12世紀
- ギリシアの科学はアラビア語をラテン語訳する形で導入される
- イスラム世界には「知恵の館」=大学・シンクタンク的システムがある⇒ヨーロッパでも12世紀に大学(universitas=組合、ギルド)が誕生。
- 大学での基本教養はLiberal Arts. Liberal=自由。奴隷ではない自由市民の基礎教養。機械技術(Mechanical arts)は職人仕事、自由市民は携わるべきではないという差別観念が存在。
- 知識は一般市民のものではなくごく限られた市民のもの。
- 体系化した学術情報の伝達と大学図書館、書物の分類システムが発達=知の体系化
- 16世紀:山本義隆『一六世紀文化革命』*3 *4・・・16世紀には知識の革命があった
- グーテンベルクの銀河系・・・写本から活字が学術情報伝達のメディアに。大量印刷の活字文化と知識の大衆化
- 図版印刷技術が発達・・・言葉でしか伝えられなかったものがイメージを持って伝達されるようになる。技術伝達に大きな役割
- それまでは学術においてラテン語が公用語⇒16世紀に俗語=民族語での書物刊行。ex:ガリレオ・ガリレイのイタリア語出版・・・知識の普遍化へ
- 職人階層の自己表現:技術がギルド内の秘伝から図版入りで書物として公開・共有されるようになる/知識の閉鎖的な伝達から書物としての公開へ
- 科学革命と市民社会
- 17世紀〜:科学革命=近代自然科学の成立
- 17〜18世紀の市民社会の成立
- 公共的な議論の重要性の認識と、学問・科学との密接な関わり
- 啓蒙=自分の頭で考える/他人の言いなりになるのではなく自分の頭で考えて行動すること
- 理性の公共的な使用が必要・・・意見表明/議論の自由の保障へ
- 情報の共有が必要・・・批判的公開性・不正を認識する尺度の必要
- 「公共圏」の成立
- イギリスのコーヒーハウス・フランスの文芸サロン・ドイツの読書人階層によるオピニオンリーダー
- 印刷物による文化・情報・娯楽の伝達が公共圏を通じてなされ、市民同士の連帯と批判的討議の空間が生まれる⇒市民革命へ
- 学術情報の流通が背景にある
- 19世紀・・・科学の社会的制度化が行われる
- "scientist"という語は19世紀に生まれる(それ以前の者は自然哲学者と名乗っていた)
- 知識の専門分化。biologyやgeology等の今の学問の元になる語が生まれてくる。分野に分かれた学会も次々と成立
- 学術雑誌の発行、レフェリー制度、同僚評価(ピアレビュー)・・・今日の学問研究のスタイル
- 科学者コミュニティとしての自律性、内部規律の形成
- 公開講義・実験も盛んになる。ex:英国王立研究所によるクリスマス講演=一般市民への啓蒙
- 20世紀後半・・・科学の変貌
- アカデミズム科学から産業化科学へ
- アカデミズム=自分の好奇心に従って研究。産業化科学=産業と密接に結びつく。
- 目的も好奇心の赴くままではなくプロジェクト(ex:科研費の優先分野)達成型に。
- ピアレビューだけでなく納税者に対する社会的説明責任=accountabilityが求められる。
- 科学者⇒科学企業家へ(好むか否かに関わらず)
- トランス・サイエンス=科学によって問うことはできるが科学によって答えることのできない問題群からなる領域
- 科学だけではなく政治・経済が不可分な領域。BSE、インフルエンザetc…
- 「リスク社会」=科学技術と社会的リスクが不可分に
- リスクをどう負担する?・・・政府はリスクの分配も求められる。「リスクを次の世代に先送りにしていいのか?」
- 科学のあり方が科学者共同体だけでは決められない時代
- 啓蒙から相互啓発へ
- アカデミズム科学から産業化科学へ
基調講演(2) 「学術情報・科学情報を保存・流通させるために:専門家と市民の間でできること」(長尾真先生・国立国会図書館長)
- 研究者の行動
- とにかく論文を書いていち早く発表し、同僚に認められることで先取権を獲得することが必要
- 論文の基礎になるデータ・資料がどうなっているのかを今日話したい。
- データや資料は囲っておきたがる。
- 研究成果に伴う権利
- 研究成果の保存・流通
- 科学技術の成果は雑誌で流通される
- 今日、雑誌価格は高騰。年7-8%ずつ値段も上がる。NDLでも34,000タイトルの購読e-Jの値上がりが問題。
- オープンアクセス=研究成果をフリーに流通させる、ということがなかなか広まらないのはなぜか? 商業出版社が有名誌を握っているが、いつになったらOAで自由に成果が流通する?
- 機関リポジトリ・・・自由にできるかは微妙だが、もっともっとやっていく必要はある。
- 研究成果を出すためのデータ・・・研究者の創意工夫により集め、作られている。業績として扱うべきではないか?
- データを保護する制度的仕組みはない。研究者は自分のデータを囲っておく。面倒になれば捨てる
- 自然科学系では大規模装置でデータは自動的に作れる。データは誰の所有物か?
- データの価値と研究者の創意がある場合・ない場合の議論が必要?
- オープンアクセスと同様のオープンデータは可能か?
- 公的機関にセンターを作る必要?
- フェアにオープンにすると競争に負ける・・・病原菌データを国際的に公開すれば医薬品製造で先を越されたり、国の利益に関わる可能性がある
- 国から外にはデータを出さない/企業は社外にデータを出さない
- オープンにするのは大事だが、フェアなデータオープンと研究活性化には国際的な取り決めが必要
- 科学技術の成果は雑誌で流通される
- 国立国会図書館と科学技術情報
- 海外商用電子ジャーナルは購読は出来ているが、国会図書館による蓄積は出来ていない
- 電子ジャーナルの永久保存・・・外国雑誌については行われていない
- 研究者がwebサイトにアップしたデータを如何に集めるか? レフェリーのない論文が発行できる・・・論文の品質はどう保証するか?
- 現在、国会図書館が冊子体を購読している海外雑誌は数千タイトル。電子ジャーナルは3万数千タイトル。他にも学位論文などの科学技術情報がある
- 科学技術・経済分野についての専門的なレファレンス・ライブラリアンが常駐(ただし医学はいない)。来館すれば便宜も図るし資料もある
- リサーチ・ナビ・・・学術・科学情報へのナビゲーション。
- 専門図書館の役割
- 研究者と社会のコミュニケーション
- 研究者は研究のための時間が欲しい。図書館員やジャーナリストの役割が必要
- 研究者からの一方的な説明(講演など)/対話による相互理解
- これからは市民との対話とそれによる研究者自身の問題点発見が必要?
- 市民の研究への積極的参加の可能性・・・研究調査への参加、被験者としての参加、不特定多数のネットワークによる支援
- 図書館でも同様のことはある。ex:古い写真をデジタル・オープンにして情報を求めるカナダの取組み。多くの人の知恵を借りることが研究においてもありうる。市民自身が研究の意義も内容も理解でき、批判的にも考えられる。そう言う人には必ず成果をフィードバックして渡すべき
- 大学の学生の教育にも意義がある・・・学生を研究にかりだして身をもって研究を実感してもらう
- 社会(市民)にとっての科学技術
- 狭い分野を考えるのではなく、狭い分野が研究全体や社会にどういう意味を持つかを常に考えねばならない
- 地球の未来を考えて、これからどうやっていくか。研究者だけでなく色々な方とのディスカッションと認識が必要。そうすることで市民も社会にとって科学技術が持つ位置づけがわかる。
- これにより科学技術がうまく流通し、社会に位置づけが理解され、健全に発展するのでは
パネルディスカッション(進行はACADEMIC RESOURCE GUIDEの岡本真さん)
「科学コミュニケーションにおける市民参加*5」(産業技術総合研究所・江渡浩一郎さん)
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- 未来館に展示されているパケット送信の仕組みについての展示物の紹介
- メディアアーティストから産総研に転職、qwikWeb*6を作成
- Wikiが使いやすいのはわかった・・・なんで使いやすいのか?
- 利用者参加による建築の推進・・・「一つの建築もまた都市と同様に作られるべき」
- パターンランゲージ・・・繰り替えし登場する形態を辞書のようにまとめる
- 建築業界で大きな反響が起きるが失敗。建築家と利用者は分離しっぱなし
- パターン言語をプログラミングへ・・・ウォード・カニンガム:Wikiの開発者
- 1987年、利用者とプログラマが分かれ始めた時代
- デザインパターン、エクストリームプログラミング、Wiki(webサイト利用者が設計に関与できる)へ
- 科学コミュニケーションにおける市民参加について
- 子どもの頃は児童館の工作教室によく通う・・・先生の代わりに教える側に立つことに
- 教える側と教わる側が入れ替わる瞬間の思い出。利用者参加の原点
「わらしべ長者的研究ライフ(中央大学/慶應義塾大学・折田明子さん)
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- 自己紹介・・・「匿名の研究者/超能力者/全国報道」
- 研究者としてのポリシー・・・「アタリマエを疑う」/「わらしべ長者になる」
- 「アタリマエ」を疑う
- 社会科学は先入観に邪魔されやすい・・・見たいものしか見ていかない・確証バイアス
- 社会科学では追試が不可能・・・どうやって妥当性を持つか? 科学として示すためにはどうしたらいいか?
- ネタは現場に落ちている・・・現場と手法をぐるぐる回る
- たとえばネットの匿名性
- 「匿名のブログがほとんど」というアタリマエ⇔匿名だけど有名なブロガーとは?
- ネットの匿名・・・現実に誰かわかる/現実に誰かわからない⇒「同一人物か特定できるか」というアイディアを入れる
- 実際に調査すると日本人の50%は筆名、実名25%、本当に匿名(誰だか特定できない)は25%
- わらしべ長者
- 面白いなと思ったら言ってみる、それもわかりやすくいってみる。サイエンスコミュニケーションは難しいことだが、アタリマエを疑うこととそれを裏付ける研究手法を持ってインタラクションすることで色々なメリットがつかめるのでは
「コミュニケーションの可能性としてのデザイン」(デザインチームmatt*8・李明喜さん)
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- 空間のデザインとディレクションをやっている。今日のメンバーの中では一番テーマと遠そう。普段やっていることを話しながらコミュニケーションのヒントになれば。
- タイトルは1999年にmattをスタートした時から、デザインをコミュニケーションの可能性としてやってきたもの。
- 2003年、山口の情報芸術センター(図書館・メディアアート・ステージの複合スペース)での仕事=カフェの紹介
- 子供にとってのメディアの入口になるスペースにカフェ機能をつける。
- 320mm×のホワイトキューブのモジュールで構成。小学校1-2年生でも持ち運べる、大人も座れる
- センサーでキューブの位置を読み取ってwebの画面がリアルタイムに変化、プロジェクタに投影される絵が変わって実空間も変化する
- そこで子供たちがどんな遊び方を見つけていくか?・・・想像を超えるようなゲームを作ったり、関係ない子供同士が仲間になっていったり
- 科学未来館の外にあるロッテリアのデザイン
- d-labo・・・ライブラリ・ギャラリー併設のスペース
- pingpongプロジェクト・・・東大・知の構造化センターベースで、ディレクターとして李さんも参加
- デザインにおける知の構造化/行為からデザインを捉えなおす
- コンピュータサイエンスとデザインが重なり合ってやっていこう
- Twitterからの行為のみの自動抽出エンジンと、行為の集合を可視化するpingpongマップ
- 多摩美大図書館のアーケードギャラリーでpingpongのシステムを使ってWSを開催。
- pingping002も実施中・・・地理的なだけではなくユーザがどんなことで楽しんでいるかを可視化・共有できるようなマップ
- 会場でのインタビューも取り入れている
- 実験とデザインの間をつくる・・・講義/WS(東大・池上さん、李さん、劇作家の方でやっている)
- デザインは「前期デザインから後期デザインへ」
「学術のDemocracyへ」(東北大学脳科学グローバルCOE・長神風二さん)
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- 野家先生のお話について・・・グーテンベルク銀河系が15世紀、今はインターネットで超銀河系に。インターネットにより何かを解体する話を、かつてのUniveritasが拒んだように今研究者が拒んでいる?
- 長尾先生のデータ共有・・・理系の研究者は本当に可能か考えてほしい。前からその話をしていたのだが、まさか長尾先生からそのお話があるとは。
- それをひっくるめて、結局priorityをどう評価するのか、それが誰の権利になるのか、そしてそれを自律的に発展させる話で後の3人のお話が出てくる
- 江渡さんのお話にあった逆転する瞬間が、折田さんのお話にあるような行ってみることで広がる何かになり、それをどうデザインするかが李さんのお話かと思った
- 学問や学術が自律的、分散的で発展しながらそれが総体として協調するためにどうすればいいのか、それがwebで出来そう。そこで学術が大学や研究者に限定されてしまっているのをどう脱却できるか。
- Science、学術は誰のものか?
- サイエンスアゴラは出展者と参加者を分けないところからは始まった(オペレーション的に不評で廃止)
- 上にいる・下にいる誰かというのではない風にコミュニケーションを動かすにはどうしたらいいのか?
- 科学の本質はコミュニケーション・・・論文を公開し読んでもらうことでしか科学が進まない、それをどうすれば誰にもオープンでaccessibleにできるか
- 全論文の公開は前提。その上で"成果"に至る手前の段階でも参加できるようにしながらオリジナリティの権利等を確保するには?
- 今後は研究データそのものが公開されるようになる
- レビューに新しい意味が出てくるのではないか?
- 日本語の問題・・・市民が参画できるためにはラテン語ではなく俗語での研究があったように、英語論文を即時的に翻訳するようなことができないか
- 日本の基礎研究をオープンにしていくことが取るべき国際貢献かも知れない
- 特許制度は先に放置することで特許が取れるような制度を作っていかねばならないのでは?
ディスカッション
- 岡本さん:討論が煮詰まる方向ではなく、自分が持ち帰る卵を育んでいただければ
- 岡本さん:4名の提案講演者について、野家先生、長尾先生、一言ずつお願いします。
- 野家先生:インスパイアをまとめきれていないが、江渡さんの教える側と教えられる側の逆転が市民参加の原型というのは印象に残った。コンセンサス会議を主宰されてきた友人から聞いた話では、専門家と非専門家の間で知識を共有しながら課題についての合意点を探る中で、ある化学者が実験の中では1mgのことを研究してきてmg単位のことしか頭になく、それがトンの単位で公開された場合の社会への影響については考えたこともなかったが、市民の方はむしろそういうことを気にしていることがはじめてわかったという。そういう逆転が科学コミュニケ―ションでは重要。玄人と素人の境界がぼやけ、あるところで逆転することが一番重要と感じた。
- 長尾先生:今日の科学・研究がどう行われていくかというのがずいぶん昔と変わっていることが若い皆さんの活動によって具体化してきているように感じた。我々の時代には研究ってのは個人の発想と創造性により行われていたが、今日では色々な人たちとのコミュニケーションや意見の衝突、dialogによって展開している。ネットの時代は特にそう。私も研究室で一番楽しいのは対等に、真剣に議論できる同僚を持つことで、それによって創造性がインスパイアされる。それがもっともっと広い世界になってきつつあるのかな、という印象。
- 岡本さん:あえて私の方から論点を。私自身はアカデミシャンではなく実務家なのだが、新しい枠組みや仕組みを提起することの価値は非常に感じるが、一方で従来の枠組みの中で出来ることはないのか? 私自身、論文を書いたことはあるが、データの提供する側に回ったこともあり、謝辞に私の名前が入っている論文も100本くらいある。謝辞をきちんと書き、それを扱うこと、従来科学の枠組みの中で出来ることが何かないのか? もう一つは、専門家の議論というものがあったが、私がYahoo! 知恵袋のプロデューサーをしていたとき、ある点においては誰しも玄人であり、ある点では素人であると考えていた。ある事柄については人はこたえられても、別のところでは聞かなければならない。そういうサービスを心掛けたのだが、専門家間というものをどう捉えるのか?
- 李さん:最初の話はどちらかと言えば学術コミュニケーションと思うので僕はわからないが、僕は科学については一素人だが、科学は大好きで未来館も何回も来ている。もともとの科学の持っているものの力でまだできることはあると思うが、そこにおいて何をどうしたらいいかを話すときに、どのように設計するかを話す土壌ができているのではないかと思う。そろそろ議論として、如何にデザインをしていくか、狭義の意味ではなく講義のデザインとしてどうするかということを、野家先生や長尾館長を交えて話していければ。
- 長神さん:いろいろなことが学術の中で出来ると思うが、対等にディスカッションできる友人がいることが重要という話があったが、理系の研究者は最近では研究室ではそういうことはできなくてTwitterでやっていたり。これは絶対何かおかしくて、それをなんとかできる方法論、人間関係とか職の制度とかピアレビューは続いてきた中で、前提が崩れつつあって、一番生でやっている研究室のシステムがそこに追いついておらずインターネットの方がコミュニケーションが深く出来るようにデザインされている、そこで新いブログ等の思想としてのデザインを現実の研究室、大学、雑誌の運営に活かせるんじゃないか、そのとき江渡さんのパターンの話とかが生きてくるのではないか。
- 江渡さん:長尾先生にお聞きしたい。Wkipediaのようなものは長尾先生と野家先生はどう評価されている?
- 長尾先生:私は非常に高く評価する。内容的に誤りがあるとかによってWikipediaを信用してはいけないという人は多いが、何を信用するかは使う人が判断すべきもの。書いてあるから正しいと思うのがそもそもいけない。だいたい百科事典で100万を超えるような項目を持つものは紙にはなく、また非常に便利に使えることも事実。集合知の世界で非常にいいものを作ってくれたと評価している。
- 野家先生:私も利用しているので評価しているが、学生がコピー&ペーストでレポートを書いてくるので苦労もする。今日のお話に共通しているのは利用者参加型の知的生産・知的創造の現代的局面が強調されていた。Wikipediaはある意味ではそれの典型。いろいろな誤りとか偽情報は入っているかも知れないが、それも利用者によりわずかずつバージョンアップするプロセスが重要なのではないか。
- 野家先生:岡本さんの謝辞の話について。最近、特にアカデミズム科学から産業型になり、著者のあり方が理科系ではFirstからcorrespondenceまで複数で、400人とか2,000名とかの共同論文もあったり。最近では謝辞に入るべき人も著者に入れたり、論文に著者の役割を書いたりとか、名前を貸しているだけの偉い先生は年に400本書いているとか、プロジェクト達成型研究では著者のあり方が変わっている。ノーベル賞の同一テーマ受賞も今後3人では追いつかなくなるかも知れず、研究スタイルと学術的な評価を連動して考えないと、どう評価されるべきかを考えるときに非常に難しい問題が生じるのではないかと思う。
- 折田さん:誰もが専門家になり、素人にもなりうるということで、ビジネススクールで授業をやったことを思い出した。私がネットコミュニティの講義をしたら受講者の中にコミュニティ運営者がいた。現場の知と研究的な立場では、知の体系化や研究の手法・作法といったところから現場の専門家の知を次の時代につなげる手助けをすることではないか。それが今までの枠であり作法である学会・論文の書き方を使ってコミュニティを広げ、自分たちもそれに載せて調査していく。たとえば調査について、インターネットで集められる声はネットだから集められるものだったりする。これからお作法を作るものとしてやっていくべきかと考えている。
- 岡本さん:考えることで頭がいっぱい、色々な刺激・宿題を貰えたというのが総括でいいのかとも思う。頭がパンパンになったことをそのままにせず、自分の宿題として考え、次のこういった場で発揮できればよいのではないか。
・・・あらためて、濃い・・・!
一つ一つがかなり重いパンチがごっすんごっすん飛んでくる感じ。
ヤバいワードがごろごろですよ。
文中でも気になったところに強調をつけましたが、
- 科学技術のシビリアン・コントロール/専門家支配の時代ではない/合意形成と公共的決定
- 市民自身が研究の意義も内容も理解でき、批判的にも考えられる。そう言う人には必ず成果をフィードバックして渡すべき
- 教える側と教わる側が入れ替わる瞬間の思い出。利用者参加の原点
- 面白いなと思ったら言ってみる、それもわかりやすくいってみる
- 「演劇」モデルから「祭り」モデルへ/作る人と参加者が一緒になっていくモデル
- 上にいる・下にいる誰かというのではない風にコミュニケーションを動かすにはどうしたらいいのか
- ある点においては誰しも玄人であり、ある点では素人である
など・・・「双方向のコミュニケーション」、あるいは野家先生の「科学のあり方が科学者共同体だけでは決められない時代」と言うこと、それは言いかえれば「科学共同体以外の人が科学のあり方に参加できる時代」でもあると思うのですが、そう言う時代の到来と言うことはこれまでも長神さんのお話等を通じて考えていたのですが。
今回のシンポジウムでそれが思っていたよりも遥かに近いところまで来ているのではないか、と感じました。
一方、大きく取り上げられていたわけではないのですが個人的に気になった点としては、長尾館長の
- オープンアクセスと同様のオープンデータは可能か?
- 公的機関にセンターを作る必要?
- フェアにオープンにすると競争に負ける・・・病原菌データを国際的に公開すれば医薬品製造で先を越されたり、国の利益に関わる可能性がある
- 国から外にはデータを出さない/企業は社外にデータを出さない
- オープンにするのは大事だが、フェアなデータオープンと研究活性化には国際的な取り決めが必要
これ!
長尾館長から、データ公開についてこの点からの言及があったと言うのはとても興味深いです。
オープンアクセスに関する議論の中で「国=納税者の金で研究をやっているのだから・・・」と言うのは良く出てくる話ですが。
この論理だと、「他国に先んじられて国益が損なわれる可能性」がある場合については「国内ではオープンだけど国外には出さない」って判断が行われることもありうるわけで・・・
しかしそれだと科学研究の発展を世界レベルでとらえると不利益で・・・なんらかの調整によってうまい具合に回せるようにすべきなんだけど、それは「研究者によるデータの囲い込み」(「他の人=主にライバルに取られるのが嫌だ!」)とはまた別の次元での調整が必要なはず・・・ってあたり、データ公開については考えるべきことがまだまだあるよなあ、とかなんとか*9。
その他、考えるべきことの種がいっぱい詰まったイベントでした。
この先もきっと岡本さんや長神さん、その他の方々がまた同様のイベントを開催されることも多いかと思いますが、次の機会までに自分なりの宿題をなんとか、片付けると言わないまでもちゃんと進めておかないとですね。
*1:http://ameblo.jp/marika-uchida/
*2:http://www.scienceagora.org/scienceagora/agora2009/index.html
*3:
*4:
*5:2009-11-03 20:53 岡本真さんのコメントを受けて修正。岡本さんありがとうございましたm(_ _)m
*7: パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則 (WEB+DB PRESS plusシリーズ)
*9:いや本当は論文の公開も考えるべきではるんですが、論文はもともとオープンにpublishしちゃってるのでもういっかーってなことも